死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
死刑廃止運動をしている市民団体のメンバーで、運動の事務局的な役割もこなす高田が最初に受けた「洗礼」が抗議電話の対応だった。
おおむね名も名乗らず、「お前の家族が殺されても死刑廃止と言えるのか!」がお決まりのセリフだ。私は今でもこの手の質問に「わからない」と答えている。なぜなら、私は大切な人を殺されたことがなく、その経験を想像して答えるのは、経験した人たちに対して傲慢な気がしてならないからだ。肩肘張って「それでも死刑を望まない」と言いきる自信もないし、かといって「そうなれば死刑を望む」と言いきる確信もないからだ。
近年、犯罪が凶悪化していると言われるが、以下に記す今から30年以上前である1980年の事件を読んで、どう感じるだろうか。
1980年8月19日、新宿駅西口バスターミナルに停車して発車の時刻を待っていた一台のバスの後部ドアから、火のついた新聞紙とガソリンが投げ込まれ、車内は一瞬にして火の海となった。6人が死亡して14人が重軽傷。逮捕されたのは丸山博文(当時38歳)。
こんな事件があったなんて知らなかった。当時俺は5歳。知らなくて当然か。
長男を出産した妻が精神病院に入院してしまい、丸山は現場作業員として日本中を転々としながら、児童養護施設に預けた長男のために仕送りを続けていた。当時の新聞によれば事件の4日前、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいた丸山は、通りかかったサラリーマンから「邪魔だ」とか「ここから出て行け」などと言われたという。憂さ晴らしに競艇に出かけるが負け、その後やけ酒をあおって、午後10時頃ガソリンを購入している。犯行当日、駅構内のロッカーに預けていた全財産の入った手提げ袋を取りに行くが、荷物は期限切れで回収されていた。丸山はこれに怒りを覚え、「幸福そうな通行人を脅かすつもりでガソリンに火をつけた」と供述した。
境遇には同情するが、なんとも身勝手な犯行動機である。検察は死刑を求刑するが、弁護側は「アルコールによって酩酊状態にあり、意識障害に陥っていたため、乗客の存在はもとよりバスの存在さえ認識していなかった」として、殺人については無罪を主張。1986年、無期懲役が確定した。1審でも控訴審でも丸山は、傍聴席に向かって「ごめんなさい」と言いながら何度も土下座をした。
千葉刑務所に収監された丸山は、それから11年後に獄中で自殺した。
この時、丸山の弁護をしていたのが、安田好弘弁護士だ。名前を直接には覚えていなくても、光市母子殺害事件で少年の弁護士をつとめ、裁判に置いて「ドラえもん」とか「復活の儀式」とか を主張した弁護士と言えば分かるだろう。安田弁護士については本筋ではないので割愛する。
オウム真理教がらみで、死刑が確定している岡崎一明ぶ著者・森達也が面会した時の会話。
「拘置所の暮らしで自分が変わったと感じる点はありますか?」
「自分の何を? 意識か? 心か? 価値観か? 宗教観や人生観なのか? いずれにせよ死刑制度で良かったと、今は思います」
被害者遺族でありながら、死刑制度の廃止を訴える人がいる。
実の弟である明男を1984年に殺害された原田正治は、当初は主犯格の長谷川敏彦を激しく憎悪して極刑を願う。しかし獄中の長谷川から何度も謝罪の手紙をもらい、死刑確定直前に初めて面会を果たした原田は、その深い反省に触れると同時に、長谷川の姉や子どもが逮捕後に自殺したことなども知り、彼を処刑しても誰も救われないと考えるようになる。
そして、原田は自らの著書
『弟を殺した彼と、僕。』で以下のように記述する。
その頃、僕は、こんなことをイメージしていました。明男と僕ら家族が長谷川君たちの手で崖から突き落とされたイメージです。僕らは全身傷だらけで、明男は死んでいます。崖の上から、司法関係者やマスコミや世間の人々が、僕らを高みの見物です。彼らは、崖の上の平らで広々としたところから、「痛いだろう。かわいそうに」そう言いながら、長谷川君たちとその家族を突き落とそうとしています。僕も最初は長谷川君たちを自分たちと同じ目に遭わせたいと思っていました。しかし、ふと気がつくと、僕が本当に望んでいることは違うことのようなのです。僕も僕たち家族も、大勢の人が平穏に暮らしている崖の上の平らな土地にもう一度のぼりたい、そう思っていることに気がついたのです。ところが、崖の上にいる人たちは、誰一人として「おーい、ひきあげてやるぞー」とは言ってくれません。代わりに「おまえのいる崖の下に、こいつらも落としてやるからなー。それで気がすむだろう」被害者と加害者をともに崖の下に放り出して、崖の上では、何もなかったように、平和な時が流れているのです。
俺は死刑存置派だが、彼の例え話は分かりやすくて考えさせられた。しかし、分かりやすいだけに、そこにはちょっと危険な落とし穴もあるんじゃないかというふうにも思う。分かりやすいことが正しいこと、というわけではないからだ。それに、彼が感じたことを皆が同じように感じるわけではないし、すべての確定死刑囚が彼の弟を殺した犯人と同じように深く反省している確証もない。あくまでも、これは原田正治という人が感じ考えたことであって、それをそのまま全例にあてはめて考えることには無理がある。
こうして原田は死刑執行停止を願い、死刑廃止運動の団体と行動を共にするようになる。
駅前で死刑執行停止を訴えるビラを撒く原田らのグループに、通行人が「被害者遺族の気持ちを考えろ」と声を荒げる。「彼はその被害者遺族です」とグループのメンバーが答えると、通行人は気まずそうに走り去る。
ところで、誤判で死刑執行されて、そのあとで実は冤罪だったことが証明された場合、国家はどれくらい補償するのか。刑事補償法第4条にはこうある。
死刑の執行による補償においては、三千万円以内で裁判所の相当と認める額の補償金を交付する。ただし、本人の死亡によって生じた財産上の損失額が証明された場合には、保証金の額は、その損失額に三千万円を加算した額の範囲内とする。
安い。だが、安さ以上に大事なことを森が指摘している。
この数字を是正せよとの声はあがらない。この社会が適当な金額だと認知しているということではないだろう。ほとんどの人は知らないのだ。間違って死刑執行した場合の補償額が三千万円以内ということだけでなく、そもそも冤罪死刑囚がどのくらいいるのかを。
福岡事件では、西武雄という人が死刑執行されているが、これがどうにも冤罪くさい。彼は刑の執行前に辞世の句を詠んでいる。
叫びたし 寒満月の 割れるほど
冤罪の中には、警察や検察のミスではなく、恣意的なものがある。元検察官の
三井環はこう語る。
「裁判官はね、昔から検察依存なんです。検事が勾留請求する、あるいは逮捕状請求するでしょ。これ、いわゆる自動販売機やからね。裁判所は言われるまま。検事が反対したら保釈も認めない。なぜ検察が保釈を嫌がるかというと無理しているからですわ。だから保釈させずに罪を作る。たとえば中小企業の社長が逮捕されたとき、ずっと拘束されていたら会社は倒産しますよ。だから保釈ほしさに、やってなくても認めてしまう。認めれば保釈されますから。こうして実際は無罪なのに有罪になってしまう。検察のほうも無理なことやっている自覚があるから、保釈させることが不安なんです。だから起訴後の接見も禁止する」
日本の司法に冤罪を創り出すこのような体質がある限り、死刑があるのはやっぱり怖い。だから俺は、死刑存置はまずいんじゃないかという気持ちになった。だが、森はもう少し考えを先に進めようとする。
仮に冤罪が絶対にない刑事司法のシステムが構築されたとき(現実にはありえないが)、僕は死刑制度を支持するのだろうか。
この人、妥協しないなぁ。つくづくそう思う。俺は冤罪が絶対にないのだったら、死刑は存置しても良いと思う。現時点での死刑制度存置に対する反対理由は冤罪があることに尽きる。だから、池田小事件の宅間守のように犯行が明らかな場合には、死刑はありだと思う。
森の結論は死刑廃止。ただ、冤罪の有無がどうこうという話ではなく感情のレベルでの結論だ。俺はそれはちょっとどうなのかなと思う。感情的な廃止論は、感情的な賛成論とどう違うのか。森は、自らが何人もの死刑囚と会って、直接に彼らを知ったからこそ彼らを救いたいと訴える。それなら逆に、被害者を直接に知っている家族や友人だからこそ、加害者を死刑にしたいと願うわけで、ちょっと訴えかけとしては弱い。
俺の結論は、今のところ条件付きの死刑賛成。絶対に冤罪があり得ないケースに限ってのみ死刑判決が下されるべきである。たとえ執行される前に冤罪が認定されたとしても、日々自分が刑場に連れて行かれるのを恐れて生活する心理ストレスは計り知れないので、「冤罪が認められてよかったね」というような話ではないからだ。検察官、裁判官はこの点を肝に銘じなくてはならない。それができない人間が司法に関わるべきではない。冤罪に関わった警察、検察官、裁判官が、冤罪被害者に対してどのような反応をしたか。最後に
免田事件での冤罪被害者・免田栄の語る一例を引用する。
濡れ衣をはらし、社会に帰った私は、当時の熊本県人吉署捜査係長福崎良夫氏に会って感想を求めると、「俺たちは仕事でやった」と言う。私を起訴した熊本地検の野田英夫検事は「今さら非難するな」と言った。
最初に死刑判決を言い渡した熊本地裁八代支部の木下春雄裁判長は「ご苦労さん」とだけ言った。
こういう人たちに裁かれて無実の罪で死刑になる可能性がある現状は、多くの人が知っておいた方がいい。
本書を通じて死刑を扱ったマンガがあることを知った。監察医を主人公にした『きらきらひかる』の作者による
『モリのアサガオ―新人刑務官と或る死刑囚の物語』だ。